好きな事なんてやらないでもいい。本当に。

「好きな事をやれ!」と声高に言う人もいるでしょう。

僕はその言葉に非常に悩まされ続けてきたと思っています。

なんと今の今まで、30過ぎまで悩んでいたので、恥ずかしい限りだと思います。

自分の周りに「好きな事をやってきたから、成功できたんだ!」という話を好んでするタイプの方が、たまたま多くいたから、そっちに寄せられたんだと思います。

そういう人を否定はしませんが、そういう人はそういう人だ、と思う事にしました。

好きな事をやれと言われて、悩んでしまった理由というのは、

今までは「俺は好きな事がない。だからどうしよう」という問題なんだと思っていました。

しかし今にして思えば、自分でも、勘違いしていたなと思う。

「好きな事がない」というよりは、特段これだけが好きといえることもない、ということだったというのが、本当の自分の気持ちでした(その自分の気持ちに気づけるまでにこんなにかかりました)。

まず、最近すごく思う事として、

『価値観』や『基準』や『捉え方』等、われわれが絶対的に決まっていると思い込んでいるものすら、

「人それぞれ、使い分けて別々に考えてもいいんじゃないか」とゆるく考えることが重要なんだ。

そのことを、しっかりわかってないといけない。

結論から言うと、いわゆる「好きな事をやれ」的な『捉え方』、これは人それぞれだ。

その『捉え方』が、自分に合わないなら適用しなくてもいい。

しかしこういったことは、感情的なものなので、一度自分をその『捉え方』が支配してしまうとなかなか切り離せないので困りもの。訓練で切り離すしかないだろう。

ところで、そも「好きな事をやれ」とは、

<好き嫌いが非常にはっきりしてる>方にとって最適な『捉え方』だと思うのです。

そのタイプの方にとって、嫌いな事は非常に苦痛だから、仕事を選ぶ時も「好きかどうか」は死活問題ではないかと。

そういう人の苦労は僕にはわからないですが、僕は基本的に好きも嫌いもあんまりなく、特定のことが絶対やりたくないなんて、ほぼ思ったこともない人間のため、

「好きな事をやれ」は、僕なんかにとっては逆に逃げとか甘えの部類に入る言葉に聞こえてしまうのが現実だな、という事にやっと気づきました。

逆に僕は「好きじゃないなら、好きになればいいじゃん」という『捉え方』の方が、シンパシーを感じます。

そういう人間もいるし、そうじゃない人間もいるっていうだけの話です。好き嫌いがはっきりしてる方にとっては、そういう考えは妥協の産物でしかないから絶対許せない!好きな事を勝ち取るために戦う!という人もいると思う。

ただ、大事なのは、「そういう『捉え方』を好む人もいるんだろうね」って、お互いに、あっけらかんと突き放して考えられることなんだと思います。

自分に合わない『捉え方』を採用してしまうと、そのあと何年も無駄に悩むから。

僕みたいな人間が好きな事をやれという『捉え方』に縛られてしまうと、そも自分の好きな事を特定しないといけないという、そこから何年も悩まないといけない。

何でも好きになってしまうタイプの人にとって、その悩みは実に不毛。「何でも好き」なら、「何でも好き」で全然いいのに。

僕にとって人生観は、「好きな事を極める人生」という『捉え方』ではなくて、

生きているっていうことに対して意味を探したい、自分がこの世に生きていることはどういう意味があって、何を為すべきか。

偉そうなことを言ってるかもしれませんが、そういうことを探求することを人生の意味にしたいっていう『捉え方』こそ、僕にはあってると最近思いました。

特定の『捉え方』を好んで使えば、それに応じて人生観も、その『捉え方』に近いものに寄って行くんだと思います。

好きな事をやれ、式の捉え方なら、特定の好きを極めるという事に人生の意味を求められるのでしょうか?よくわからないけど、そんな感じなんじゃないかと考えています。

僕の場合も、自分に合った人生観はどんな人生観なのか、考えていきたいと思っております。